一歩、また一歩

気まぐれ大学生の徒然なる自由帳

孤独のチカラ

初めましてマルちゃんです。
今回は斎藤孝さんの「孤独のチカラ」について書きたいと思います。

 

孤独のチカラ (新潮文庫)

孤独のチカラ (新潮文庫)

 

 

内容としては、
世間、特に東北大震災以降は「絆」だとか「仲間」などという言葉で、
他人とワイワイしていることがいいことだという風潮がありますが、
そういう風潮にあえて反して、
「孤独」であることの価値を、斎藤さんの穏やかな語り口でとくとくと紹介していってくれるというものです。

 

 

本書を手にしたきっかけ

私は大学三年生の頃、別の大学の他分野の院に進学することを考えていたのですが、
その時に受験勉強の息抜きがてら見つけたのが本書です。
当時は「大学院に入って面白そうと思える分野を一生懸命勉強して将来的にはアメリカで学者をやろう」と本気で思い、ある意味希望に満ち溢れていたため本書の内容はどうにも薄暗く適当に読み飛ばしてしまったものですが、
その後、色々あり別の大学の院に行くという野望を諦めた時、どうにもやることがなくなりました。
自分自身、今までの人生を鑑みると友人というものに縁がない生活をしていたためもちろん一緒に遊んでくれる友人もいない。かつて、自分を寂しさから遠ざけ、とりあえずの居場所と"やるべき仕事"を与えてくれたサークルも引退してしまいました。
そういう時に部屋で目に付いたのがこの本。どうにもやることがなく、気分的に暗黒だったので、わらにもすがる思いで読んでみたところ、不思議と心に染み渡りました。
そしてこの本を読んだのち、本の教えの通り、ひたすら読書をしばらく重ね、今になってですが、その成果を当ブログに書こうと思います。
だからある意味、この本は当ブログを作るきっかけにもなりました。

 

本書の概要

著者:齋藤孝
ページ数:199
出版社:新潮文庫
出版年月日:平成22年10月1日

 

本書の内容

第1章失われた10年<孤独と私>
第2章<単独者>として生きる
第3章孤独の技法
第4章ひとりぼっちの世界<孤独の実践者>
第5章孤独のチカラ

 

第1章では、
浪人してから30代はじめの明治大学で職を得るまでの十数年間筆者が体験した<孤独>について語ってくれます。

流れとしては、
出遅れてしまった1年間を取り返したいと誓った浪人時代。

その後、無事東京大学合格するも、自分と同級生を先輩と仰ぎ、1歳年下に同僚面される事に対してコンプレックスを感じた事、
また著者自身が「内実のある付き合い」を志向していたのもあって、
いろいろこじらせてしまい暗黒時代へ。
そこで著者は読書を通じて「精神の友」を得たり、語学にはまります。

その後、大学3,4年で人間関係を持ち直すも、
大学院に入って自分と他の人間たちの教育に対する思いの温度差や教授とうまくいかなった事から、また再発してしまい修士論文を書かずに一人の世界にこもりきります。

そこで、自分の精神が限界に達するまでひたすら勉強します。
その後、修士時代の猛勉強が功を奏したのか、またちょうど博士課程になった時に結婚して一家の大黒柱としての責任感が生まれたのか、論文を大量生産しました。

大学卒業後は、32歳の時に飲み会でたまたま聞いた明治大学のポストに応募するまでは無職だそうです。

第2章では、
筆者なりに<孤独>がいいことであることの論証をしています。
群れてしまうと勉強するにしても何をするにしても他者が何を思っているかが気になってしまったり、他者がしている事に流されてしまい、自分磨きにまっとうできない。
自分を鍛えるためにはどこかで他者と群れず、孤独に己と向き合い、己を磨く事が大切です。
そういう孤独に打ち勝ち自分を磨けるものこそ真にクリエイティブに至る事ができます。

内容自体も中々面白いが、
斎藤氏流の文章表現と彼自身の実体験がなんとも言えない味を出しています。

 

第3章では、
孤独をチカラに変換するための技法について紹介しています。
まず、自分が今の自分に安住していないかのチェック法、
つまり自分を客観的に見る方法について。
次に、孤独な時期特有の感情を、安易な娯楽に発散させず自分を磨く方向に持っていくための技法
簡単に言ってしまうと
「とりあえず何もやる事がわからんならこれをやってみたらいいんじゃないか?」
ということ。

この章の注目ポイントはそのあとのエッセイ的な部分。斎藤さんが孤独な時期に得たであろう様々な知識や思索がここぞとばかりでています。内容もとても幅広く、それを生き生きとした語り口で述べています。

 

第4章では、
実際の人物(主に小説家、詩人)やフィクションのキャラクターの孤独へのスタンスを読み解いています。

おすすめポイントとしては、林尹夫。
彼は第三高等学校(現京都大学)に在学時に学徒出陣し、終戦のわずか19日前に撃墜されし死亡した人物です。
とても志が高く、友人に関してもただただ退屈を紛らわすのではなく、お互い向上し合う関係を望んだ人物で、筆者の孤独のモデルの一人だそうですhttps://ja.wikipedia.org/wiki/わがいのち月明に燃ゆ
また、「読書は、死後の世界へ旅すること」という一節も中々。

 

第5章では、
孤独に絡めて、最近の人間は死というものに目を向けなくなったこととそれへの反論や孤独を「味わう」ことの大切さを語っています。

 

本書の良い点

ずは斉藤孝氏の教養の広さです。
正直、この本自体は方法論的には割と単純というか、そもそも方法論として成立していない。どちからというと自伝兼エッセイの色合いが強いように感じます。
しかし、彼の書く文章の合間合間に様々な小説や哲学書、人物のモチーフを挟み込んでいます。
少し話は逸れますが、今年の大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰が「諸君、狂いたまえ」と言って奇行を弟子に勧めている様を、
ある人が「あれはそうじゃない。狂ってしまうほど勉強しろという事だ。つまり「すするがごとく」」と言っていましたが、
まさしく斎藤氏は暗黒時代に「すするがごとく」学問していたのでしょう。
「一粒で二度美味しい」じゃないですが、「孤独」に関しての本を読んでいるはずが、小林秀雄中原中也から臍下丹田太極拳の極意など自分の知らない様々な事柄を知る事ができて良かったです。

特に先ほど触れた林尹夫などは魅力的な人物ではありますが、
そこまで有名な人物というわけではなく、普通に生きていれば知らずに一生を過ごしてしまうような人物です。

そういう様々な人物が斎藤氏の生き生きとした文章で描写されているので、
「この本を読んだら、別に読んでみよう」という気分になれます。

 

また、この斎藤氏の文章表現は中々詩的で楽しい。
例えば

ちなみに、私がはまっていた野口三千三の野口体操で一番重要なことは、
地球の中心、つまり重力とだけひたすら対話する意識で行うことである。
自分の体の重さを感じるのがコツだ。
野口は重力と闘うのではなく、
重力を味方につけることで、
よりしなやかで楽に、安定して立つことができると言っている

とあります。
この文章などは、「バランスをとる」や「体を重力に逆らわずに体操する」というふうに普通は表現するものです。
しかし、そこを斎藤氏は、「重力」を「意志ある存在」とみなし、その「重力」と「協調」して体操を成し遂げるというふうに描写しています。
そういう暖かく、インスピレーションに溢れた文体は好きな人は好きなんじゃないかと私は思います。


最後に、
斎藤氏は、東洋哲学だとか、禅や茶といった東洋的なものが好きだったのでしょう。
文章の随所に温かみのある和の雰囲気を感じます。
これは言ってしまえば私の好みの問題かもしれない。
だが持論として、お正月や葬式、また日本家屋など生活習慣的な部分を通して、日本人の精神の根底には「和」に対する親しみというものが現代でもあるのではないかと思っています。そういう根底の部分があるため、東洋的なものを感じさせる斎藤氏の文章に暖かみを感じる人は多いのではないかと思います。

 

個人的反論(全体的に愚痴っぽくなってるので見たくない人は注意)

まずは斉藤孝氏自身。
本書を読むにどうやら彼は本来は普通は人とちゃんと繋がれる人間でありながら、
浪人や教育へのこだわりが原因で人生の歯車が狂ってしまいズブズブと暗黒時代へと突き進んでしまったようです。
その証拠に本人自身が、なんども文章中で「自分は本来孤独が似合わない人間だ」と語っています。また、彼が暗黒時代と称している期間の最中、大学院の博士課程の時期に結婚しています。ここから考えていくと、彼自身はそれだけ他人と深くつながる能力はあります。ただ少し人生の歯車がかみ合わなかっただけで。まあよく考えれば、何冊もベストセラーを出し、有名私学の教授職も得ているのだから、実力ももちろんあるが、人間的魅力に関してもぼっちに甘んじる程度ではないの当たり前だが…

つまり、ある意味でこの斎藤氏は元々はリア充側であり、自分のように中学時代からまともに人と繋がれずくるしんでいる類の人間ではないようです。
まあ本書は内容的には「自分を磨くためにもあえて孤独になろう」というものであり、タイトルに「孤独」という文字を入れるのも間違いでないが、
自分はなんとも言えないモヤモヤ感を感じたましたし、他にも本書を手にとって肩透かしを食らった人間はいるかもしれない。

 

またもう一つの反論として、筆者が作中でなんども語っている「自分磨き」や「クリエイティブ」が曖昧です。まあもちろん本書は普通に他人とつるみながら日々を生きている人を対象に「他人と群れるのではない、自分を磨け」というものなのだから、「何」を磨くかや極める対象は個人個人の問題であり、著者が踏み込む事でもないかもしれない。
(もうここまで来ると非リアのやっかみになるかもしれんが…)
そもそも非リアな人間は結局自分というものがないまま、人間的魅力が少なく他人と時間つぶしもできないからこそ非リアなのである。そのためたとえぼっちでも、好きなものがあってそれを一生懸命極めているならリア充です
(さらにいうと極める対象がちゃんとしたものなら、そういうエネルギッシュな人間は誰かしらはほっとかないものだから、ぼっちで直に無くなることが統計的に多いように感じる…)。
まあこんなことなんも知らない作者に言っても仕方ないが、非リア的にはそういう頑張る対象の探し方からご教授いただきたいなと思ってしまいます。

 

その他気になった部分や思いつきなどなど

p132
孤独のロールモデル

・本文中で齋藤は以下のように語っている

 孤独についても、
あこがれをかき立ててくれるような良いモデルを持つ必要がある

 

これを読んで以下のことをふと思いました。


例えば、
幼少期に特殊な体験や経験をインプットしたりして、ある種の志向性や方向性っていうものを早くから確立した人や、家庭環境の都合上どう生きるかが決まってしまっている人。

 

それ以外の人って
「自分は何をすればいいか、どう生きればいいか」なんて全然わからないのが普通ではないかと思います(少なくとも自分も含めて周りの人々はそうです)。

 

まあそれでも人生うまくいって精神が均衡を保っているうちはなんとかなります。最近はインターネットのおかげでいくらでも時間をつぶすツールありますし。


ただ、精神的に不均衡な時期、
例えば本書の主題でもある、
「孤独でなおかつそれを苦痛に感じているとき」だとか
「自分って本当に生きる価値あるのだろうか?自分が死んだらみんな自分を忘れてしまうのではないか?」っていうアイデンティティー的な部分が不安的な時期には、
真っ暗闇を独りで歩くような怖さがある。「果たして自分の状況はこれからよくなっていくのだろうか」っていう不安があります。

そういう時こそ「どう生きるか?」という指針は大切だと思います。
確かにそういう指針は自分の頭で考えることもできます。
ただ、それで考え付けばいいが、もしかしたらうまくいかずに社会からドロップアウトしてしまったり、そうでなくてもひどく苦しむことになるかもしれない。
だからこそ、自分と良く似た境遇の先人を見つけ、それを「ロールモデル」とすることは大切ではないかと思います。
彼らがその問題に相対した時にどういう決断をしたかは、自分の問題解決をするに当たっていいケーススタディになるはずです。
(ちなみによく言われることですが吉田松陰松下村塾ではつめこみ教育ではなくケースを用いたケーススタディとディスカッションが主体であるそうです)

 

特に、江戸時代のように社会が安定していて自分の一生というものが比較的若い頃から見えていた時代と違い、変化の激しい現代社会では、大体どんな人でも明日はどうなるかわからず、人生のどんぞこにおちいるかもしれない。
ある意味、この「ロールモデル」の必要性は一層大きいです。

だからこそ、「先人たちが人生の困難にどう対処したか?」、「困難な状況になったときは人間はどう生きるべきか?」という事柄は、
「教育」、特に「義務教育」という形で学ばせるべきだと思います。

戦前は「修身」という形でそういう教育は少なからずできていました。
だが、自分の知ってる範囲では最近の学校教育ではそういう教育はないです。

確かに、「教育」という形で一方的に押し付けるように教えるという形式では、悪用すれば「洗脳」のようになってしまうかもしれない。
また、どんな人間も完璧ではなく、過去の偉人の行動も状況次第では間違いであることもあるかもしれない。
数学の公式や歴史の年号とは違い、解釈次第では間違いもあるでしょう。

しかし、本当に大事なことは、各個人が生きる力を持つことではないか?
そのためにもいろいろな過去の事例を知り、それが本当に妥当であったかをできる限り論理的に考え、正しいと思えるロールモデルは自分の中に受け入れる。そして状況に応じ、過去の偉人たちがどういう決断をしたかを参考にしながら考えることではないかと思います。

 

p171
安全地帯から離れる勇気

 

本文中のある一説では以下のように語っている。

人間的に成長しようとすれば、

精神は少なくとも一度、

心地いいある地点からの断絶を引き受けなくてはいけない。

 

この一節では自分の世界を持っている男とフィギュアなどのコレクター、いわゆる”おたく”との違いを通して孤独のあるべき姿を説いています。

 

彼がいうには、”おたく”は自分の成長を放棄してしまって、フィギュアなどの無機物の世界に凝り固まっている、ある種の幼児性を持っています。そういう姿は、特に女性などからは嫌われやすい事を本能的に理解しているので、そういう他者に対してはある種攻撃性にも似た排他精神を持って排除し、自分と趣味の合う人間を選んで、趣味に耽ってしまうそうです。

 

一方、本当の単独者(本文中の造語)というのは、人生のある期間、他人と関わる時間も惜しんで一心に自分を精進していて、一見孤独に見える。が、その期間を過ぎると、しっかりした自己を確立し、他者とも柔軟に開放的につながる事のできる人間であるそうです。孤独な間も他者、例えば、かくありたいと思うような尊敬できる人間であったり、書物の中に宿る過去の先人であったりという人間と向き合い、自分を高め、有機的に生きている人間です。


そこから考えると、本文でいうところの”孤独”というのも、
結局の所、
”安楽に他者と関わり消費するのではなく、
あえて苦しい事-例えば自分に向き合うだとか、何か”技”というものを身につけるだとか-を自分に課して、自分というものを高めていく”

という事になる。
つまり消極的孤独などではなくて積極的孤独である。

 

・そういえば本文でも、
「孤独な人」という言葉を使わずにわざわざ「単独者」という造語を使っている。
この単独者がなかなか面白い。

本文中では、あさのあつこ氏の「バッテリー」の登場人物である原田巧をよく引き合いに出しているが、その原田巧は斎藤氏が言うには

 

原田巧は、まさに自期力によって成長していく少年だ。

(中略)

全編を通じて感じるのは、巧の内圧の高さである。

巧はピッチャーとしての自分の才能に絶対的な自信を持っている。

孤高にトレーニングにも励み、その努力によって自分への信頼を深めていく。

そうしたいい循環を持っていることはすばらしいが、

巧は豪速球を投げるのだから自分がエースだと言ってはばからない生意気の塊で、

友人にさえ「気安くさわるな」と言ってしまう。(本文p34)

 

であり、彼の言う「単独者」とシンクロする部分が大きいだろう。

また他にも齋藤氏自身のことだが、

私自身は、三十五歳になっても維持していた。

誰にも相手されていなかったが、そんな年齢になっても。

『私の実力はこんなものではない』という自負は人一倍高かった。
(本文p35)

 

ある意味、彼の提唱する「単独者」はこういう経験も反映しているのかもしれない。
余談になるが、
人間、若いうちは「自分はその気になればなんでもできる」と思っているが、
社会に出てある程度社会経験を積んでいくと自分の分際というものがわかっていくというのが一般論です
(ただこういうことをいい始めた時代の人がそういう気質だっただけかもしれない。
リアルタイムで学生な自分からすると、同級生たちは20代前半ながらみょうに現実的で、そういうメンタリティをなかなか持っていないように感じる。)。

これは小林秀雄著の「直観を磨くもの」ではあの湯川秀樹先生も「40代になると自分の経験が勝ってしまい、それに縛られてしまう」というような意味のことを語っています(p112,113)。

 

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

 

 

斎藤氏はその当時35歳でしかも結婚もしていました(子供もいた?)。
その中でこういう若さを失わずに入れるのは、ある意味彼の成功者たる所以なのかもしれないです。

 

という事は、ある意味「孤独を好んでしまっている」という今の自分の状態というのは、はじめから間違ってしまっているのかもしれない。

確かに孤独で人と関わりを持たない(これも、心地のいい状態からあえて孤独という辛い状態へ踏み込んだというよりは、興味のない他者を拒絶して自分の心地いい世界に耽っているだけかもしれない)読書はしているが、

福澤諭吉安岡正篤(彼の著書にも興味深い部分があるので後日に紹介したい)が言っているように「現実に役に立たない、自分を高めないような学問、知識を増やすだけの学問はするだけ無駄である」といえるかもしれないです。

そういう事をこの一節を再読して感じました。

 

孤独のチカラ (新潮文庫)

孤独のチカラ (新潮文庫)